2013年1月27日日曜日

ナターシャ・グジーさんの想い

 1月18日・25日付「しんぶん赤旗」で、ウクライナ出身の歌手でバンドゥーラ奏者のナターシャ・グジーさんのエッセイを読みました。ナターシャさんは6歳のとき(1986年4月)父親が勤務していたチェルノブイリ原発で爆発事故が発生し、原発からわずか3.5キロで被曝し、避難生活で各地を転々とし、2000年から日本で音楽活動を続けています。
 3・11と福島原発事故についてナターシャさんは次のように書いています。「私が心から愛しているこの国の人々がなぜこんなに悲しい思いをしなければならないのか、信じられませんでしたが、やがて日本人の思いやり、心の優しさが世界中に伝わり、きっと日本は大丈夫、と思いました。しかし、とても恐れていたことが起きました。原発事故です。大変に大きなショックを受けました。かつて私たちが経験した悲劇を、もう誰にも経験してほしくない、二度とあの事故が起きてはいけないと、チェルノブイリ原発事故を体験したすべての人たちが、心から願っていたのに。毎日眠れずに泣いていました」 「チェルノブイリ原発事故のあと、何年もたってから友達が何人も病気になり、結婚してからも、その赤ちゃんたちが病気や障がいを持って生まれています。一度起きてしまったら、ずっとずっと、大地や人々を苦しめ続ける大きな悲劇なのです」 「今は何より、原発事故のためにつらい思いをしている子どもたちの、体と心の健康をとても心配しています。…子どもたちの被曝をどうしたらもっと減らせるのかを考えることが、ずっとこの国の未来には大切なことではないでしょうか。私はそのためにできる支援を続けたいと思います」

2013年1月5日土曜日

軍事独裁政権に抗して殺されたビクトル・ハラ

 今日新聞で、1973年9月にチリの軍事クーデターに反対する活動家や市民が収容されたスタジアムで虐殺された歌手ビクトル・ハラに関する記事を読みました。サンティアゴの控訴裁判所がビクトル・ハラの虐殺に関与した元軍人8人に対する逮捕状を発行し、2日までに4人が逮捕され、40年ぶりに真相解明が期待されているということです。
 ビクトル・ハラの代表曲の1つが「平和に生きる権利(1971年)」です。この曲はベトナム反戦劇のために書かれた曲で、日本でもいくつかの訳詞で歌われています。私がなじみ深いのは、学生時代に歌った音楽センターの訳詞です。
 昨年、脱原発・再稼働反対のデモのなかで「平和に生きる権利」は新たなバージョンとして生まれ、私たちを励ましてくれました。それは、リクルマイ、中川敬の詞、大熊ワタルのアレンジ、演奏=ジンタらムータwithリクルマイで、CDも発売された「平和に生きる権利」です。news_thumb_JANTALA-MVTA_LikkleMai.jpg
 私たちは、歴史のなかで軍事独裁政権、ファシズムとたたかい命を落とした多くの先人たちの遺志を継いで、平和な世界をつくっていきたいと思います。軍事力を背景に国際的な力を強めようとするいかなる策動にも抗して、声を上げていくことをやめません。
*****************************************************
歌手ビクトル・ハラ虐殺 元軍人を逮捕・裁判へ
  チリ、40年ぶり真相解明期待

 南米チリの首都サンティアゴの控訴裁判所はこのほど、1973年のピノチェト陸軍司令官によるクーデターとたたかった国民的人気歌手ビクトル・ハラの虐殺に関与したとして、元軍人8人に対する逮捕状を発行しました。警察は2日までに4人を逮捕。遺族らは同日会見し、裁判で虐殺の真相が40年ぶりに解明される可能性があるとして期待を表明しました。

 報道によると、まだ逮捕されていない4人のうち、虐殺の主犯とされるペドロ・バリエントス氏は現在、米フロリダ州に住んでいます。チリのテレビ局は昨年5月放映の番組で「バリエントスは、ハラが質問に答えなかったことに激怒し、至近距離で彼を撃った」とする元軍人の証言を紹介していました。
 遺族らは会見で、バリエントス氏の逮捕は真相解明に不可欠だと強調し、米国政府に対し同氏をチリ側に引き渡すよう求めました。チリ司法当局は2日、米国にバリエントス氏の身柄引き渡しを求める方針を明らかにしました。
 ハラの妻、ジョアン・ターナー氏は同日、「元軍人らの裁判は真相解明の道を開き、犠牲者の遺族にとって希望になる」と強調。遺族の弁護士であるネルソン・カウコト氏は、事件から40年経過しても犯人を追及することについて「独裁の犯罪者は場所と時間をこえて訴追されなければならない。犯罪者が裁かれないと犠牲者は安心して眠れない」と語りました。
 ビクトル・ハラは、チリ共産党幹部としてアジェンデ人民連合政府を支え、軍事クーデター直後に軍隊に拘束されました。クーデターに反対する活動家や市民が収容されたスタジアムで虐殺され、4日後に遺体で発見されました。拷問を受けても市民を励ます歌を歌い続けて抵抗したといいます。
 2009年12月にはサンティアゴで、死後36年を経て公式の葬儀が行われ、政府の閣僚などが出席、数万人の市民が集まりました。(島田峰隆)
--------------------------------------------------------------------------------
〈チリの軍事クーデター〉 米国の支援を受けたピノチェト陸軍司令官が1973年9月、選挙を通じて誕生したアジェンデ人民連合政府をクーデターで倒し、軍事独裁政権をつくった事件。90年の民政移管までの弾圧で約3200人が死亡もしくは行方不明になりました。2011年までの調査によると、拷問や投獄などの被害者総数は4万人を超えます。
【しんぶん赤旗 2013年1月5日】