2013年3月12日火曜日

あの日から2年 メルトダウン原子炉"冷却"の死角

 3月10日放送のNHKスペシャル「3.11 あの日から2年 メルトダウン 原子炉"冷却"の死角」をみました。DSC00739.jpg
 2年前の3月11日、巨大津波に襲われた福島第一原発は、高温の核燃料棒が溶け出す「メルトダウン」を起こして、12日 午後3時36分に1号機が水素爆発を起こしました。今回検証された一つ目は、この1号機に備わっていた冷却装置イソコン(アイソレーション コンデンサー)が正しく作動していればメルトダウンを防げたのではないかということです。なぜならばイソコンは電気に頼らずに原子炉内の水を冷却することができる装置だからです。
 地震発生後、原子炉内では制御棒が核燃料棒の間に挿入され核分裂の連鎖を停止しますが、300度という高い温度のままの原子炉を冷却しなければ、核燃料はメルトダウンして制御できなくなってしまいます。1号機・2号機の間にある中央制御室では、イソコンを使って1号機の原子炉の冷却をはじめました。原子炉は急激に冷却をすると傷むため、イソコンの起動と停止を繰り返しながら冷却を行ないます。しかし、大津波による海水流入で11日 午後3時37分に全交流電源を喪失し、1号機・2号機の動作状況を確認できなくなりました。中央制御室から350メートル離れた免震重要棟では、この時イソコンが動いているという誤った認識がされていたのです。2号機の冷却装置であるRCICという冷却装置は、運転を電気で調整する複雑な機械だったため、免震重要棟は2号機の冷却ができていないことの方に不安を感じていました。
 NHKは取材を通して、イソコンが動いていないことに気付くチャンスが何度かあったのに、それを生かせなかった問題点を指摘しました。全電源喪失の1時間後(午後4時44分)、“ブタの鼻”と呼ばれるイソコンから発生する蒸気を建屋の外に排出する管から蒸気が「モヤモヤ出ている」ことが確認され、免震重要棟はそれをイソコンが動いている状態と誤認したのです。アメリカのナイン・マイル・ポイント原発では、4年に一度イソコンの起動試験を行なっていて、イソコンが作動している時に出る蒸気の激しさを作業員は知っていました。それに対して福島第一原発では、イソコンを40年も動かしたことがなかったのです。
 二つ目に検証された問題は、3号機の消防車による注水冷却の失敗です。3号機は1号機と違って非常用バッテリーで冷却装置が動いていましたが、それも時間の問題でした。消防車を使って外部から注水を行なうために、複雑な配管のバルブを操作して、早く確実に水を注がないとメルトダウンしてしまいます。しかし、そうした訓練は一度もしたことがなかったのです。13日午前9時25分から注水を開始し、その日だけで400トンを超える水が注入されましたが、実は抜け道を通って復水器という場所に流れ込んでいたのです。復水器への抜け道にはポンプがあり、そのポンプが動いていれば水は流れないはずでした。全電源喪失を想定していなかったためにこの抜け道が見落とされていたのです。そのために3号機もメルトダウンして、14日午前11時1分に水素爆発しました。DSC00734.JPG
 今回のNHKスペシャルで検証された問題でさえも、国と原子力規制委員会は充分な対策を立てておらず、地震と津波によって生じる原発の過酷事故を確実に防ぐ手だては今のところありません。福島第一原発の廃炉作業さえも大量の汚染水の処理に行き詰まっています。原発の安全性について国民が納得できるものは何もありません。直ちに「原発ゼロ」を実現し安全な自然循環型エネルギーの開発をすすめるべきだと私は思います。

2013年3月11日月曜日

大震災から2年、急がれる被災地住民の生活本位の復興と原発ゼロへの政治決断

 3月10日、東京では11時から「東日本大震災復興と原発ゼロの実現をめざす3・10東京集会」が日比谷公園で行なわれ、5000人が参加しました。この集会の主催は、原発をなくす全国連絡会で、日比谷公園の草地広場での開催を当初予定していましたが、公園を管理する東京都に集会で使うことを拒まれ、日比谷野外音楽堂の近くで開かれ、主催者あいさつ、被災地からの報告のあと日本共産党委員長の志位和夫さんが原発事故視察の様子を報告し、再稼働許さない決意を表明しました。DSC00685.JPG
続いて首都圏反原発連合のミサオ・レッドウルフさんが連帯のあいさつ、農民、青年、科学者、地域で活動されている方々が、大震災被災地への支援のとりくみと原発ゼロへの想いをスピーチされました。
 午後からは、首都圏反原発連合主催の原発ゼロ☆大行動が繰り広げられました。午後1時に日比谷野外音楽堂に満員の人が詰めかけて反原連の集会が始まった時は、とても暑かったのですが、急に砂混じりの冷たい風が吹いてきて私は「すごい黄砂だ」と思いました。でもツイッターで情報を追ってみると、実はそれは黄砂ではなく、寒冷前線の通過に伴う砂嵐(煙霧)でした。集会後の国会請願デモは延々と続き、最後尾は1時間以上おくれて出発し、霞ヶ関の官庁街から首相官邸前、国会議員面会所前を通り、原発ゼロと被災地の住民生活本位の復興を訴えました。デモ行進の後、国会議事堂正門前を中心に夜の7時まで各エリアごとに「原発なくせ」「再稼働反対」「子どもを守れ」のコールとスピーチが続けられました。DSC00709.JPG
午後の砂嵐から夜にかけて、たいへん寒くなった天候のなかでしたが、日比谷野外音楽堂集会、霞ヶ関・国会デモ行進、国会前集会にあわせて約4万人が参加しました。ツイッターで首都圏反原発連合のスタッフが「今後も抗議活動を続け、原発ゼロの民意をたたみかけていきましょう」と呼びかけました。

軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力

 昨日、注文していたwam第10回特別展カタログ『軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』が届きました。wam=アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」は、戦時性暴力についての記憶と活動の拠点です。その第10回特別展「軍隊は女性を守らない ―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力―」は、昨年6月から今年の6月30日まで開催中です。
 以前から見たいと思っていたのですが、なかなか足を運べず、このカタログを注文しました。
 内容は大変充実しています。まず驚いたのが、表紙裏に「沈黙の声-米軍の性暴力に抗して」の展示パネルを再現して、時系列におびただしい数の暴力被害が列挙されていたことです。
 本書の構成は、「はじめに」、1.沖縄の歴史と日本軍の侵略、2.日本軍による性暴力被害、3.戦後も続く性暴力で、たくさんの証言と歴史資料が掲載されており、「慰安婦」にされたのが朝鮮人だけでなく、沖縄や九州の人もいたこと、自宅を慰安所にされた人の証言など、沖縄における日本軍慰安所と「慰安婦」被害の実態が明らかにされています。戦後67年、癒やされない元「慰安婦」たちの苦しみと、米軍駐留下で絶えることのない性暴力被害の実態を、私たちはしっかりと見つめ、戦争と軍隊の本質、基地問題について考えていくことが必要ではないでしょうか。「慰安婦」問題で旧日本軍による強制と関与を否定するような主張は絶対に通りません。多くの人に、wamの特別展・カタログを見ていただきたいです。
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