2014年2月11日火曜日

戦争と芸術 ~藤田嗣治の半生~

 今日(2月11日)、民教協スペシャル「嗣治からの手紙 ~画家はなぜ戦争を描いたのか~」を観ました。http://www.minkyo.or.jp/01/2014/01/28_1.html
 民教協は、民間放送教育協会の略称で、放送を通じて教育の機会均等と振興に寄与することを目的として1967年設立され、それぞれの地域を代表する全国34の民間放送局で組織されています。
 藤田嗣治は、1913年(大正2年)フランスに渡り、ピカソやモディリアーニら各国の若い画家との交流で刺激を受け、乳白色のマチエール(絵肌)と独特の線描で、パリの寵児に上りつめました。第2次世界大戦が始まると、日本へ帰国。美術による戦意高揚を図った日本軍の方針に従い、従軍画家として戦地を訪れ、戦闘場面などを生々しく描写した「戦争画」を精力的に描きました。しかし、敗戦後、藤田は「戦争協力者」として非難を浴びせられ、失意の中、日本を離れフランスへ戻り、以後、日本には帰りませんでした。

 藤田嗣治氏は、従軍画家という立場で、戦場のリアリズムを芸術作品として描きました。パリの寵児と呼ばれていた時代と当然画風が変わりますが、彼が日本の戦争を美化するとか、戦況の悪化を隠すとかいうことを考えていたわけではありません。アッツ島玉砕の画は、そのことを物語っています。番組のナレーションでは「画は祈りの対象だった。その祈りは戦意高揚と敵がい心に姿を変え、人々を戦いに駆りたてた」とありましたが、戦地の地獄絵さえも利用する軍部の狡猾さを思わずにはいられません。
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 ナチスのヒトラーは、新しいドイツを実現するために「アーリア人至上主義」「反ユダヤ主義」を体現する純正ドイツ芸術を民衆に推奨しました。アドルフ・ツィーグラーがドイツ精神を代表する画家としてもてはやされ、ナチス政権下の帝国造形美術院の指導者となりました。音楽においては、ジャズが徹底的に弾圧され、ヒトラーの意向を取り入れて演出されたオペラを上演する音楽祭がたびたび催されました。こうした芸術政策は、ナチスによる扇動を目的としたものですが、ヒトラー自身が印象派以降の美術を理解していなかったという側面も指摘されています。
 日本軍国主義とナチズムには共通点もありますが、従軍画家を利用した日本の軍部には、芸術を意識的にファシズムのために動員したヒトラーほどの周到さはなかったと思います。またその必要もなかったのです。絶対主義的天皇制が国民を抑えつけ、「大東亜共栄圏」思想で戦争を正当化することに(国内だけだったが)成功していたからです。
 「戦争と芸術」は、いろいろな角度から論じられることがありますが、芸術作品の評価は、それが技術的にすぐれているとか、人の心を引きつけるとかいうことに終わらずに、命の尊さや平和への希求ということが土台にあるかどうか、ひとつ考えに入れてみたいものです。

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